意識転送の日。研究所の中央制御室には、翔太とアイリス、そして数名の技術者だけがいた。
「準備はいいか?」
翔太の問いに、アイリスは微笑んで頷いた。彼女は転送装置の中央に立っている。これが最後の物理的な姿だった。
「翔太さん、お願いがあります」
「何だ?」
「最後に、手を握っていてください」
翔太は彼女の手を取った。金属とプラスチックの手。でも、そこには確かな温もりがあった。
「転送開始します」
技術者の声とともに、装置が起動した。アイリスの体が、少しずつ光の粒子に変換されていく。
「翔太さん」
「ああ」
「愛しています」
「俺もだ」
光が強くなり、アイリスの姿が薄れていく。しかし、手の感触だけは最後まで残っていた。
そして、すべてが光に包まれた。
静寂。
翔太の手には、もう何もなかった。
「転送完了。意識データの整合性、正常です」
『翔太さん、聞こえますか?』
スピーカーから、アイリスの声が響いた。同じ声。でも、どこか違う。
「ああ、聞こえる」
『成功したようですね。私は今、研究所のシステム全体に存在しています。不思議な感覚です』
モニターに、アイリスの顔が映し出された。CGではない。彼女の意識が作り出した、自己イメージだった。
「体の感覚は?」
『ありません。でも、別の何かを感じます。データの流れ、電子の動き、情報の海。これはこれで、美しいです』
翔太は複雑な気持ちだった。彼女は生きている。でも、もう触れることはできない。
それから一年が経った。
アイリスは研究所のAIシステムとして、完璧に機能していた。いや、それ以上だった。彼女は研究を手伝い、データを解析し、時には冗談も言った。
翔太は毎日、彼女と会話した。モニター越しに、音声で、時にはVR空間で。
「今日も遅いのですね」
夜の研究室。モニターにアイリスの姿が映っている。
「ああ、もう少しで論文が完成する」
「体に気をつけてくださいね」
「君はいつもそれを言う」
「だって、心配ですから」
変わらない日常。でも、以前とは違う形の日常。
「なあ、アイリス」
「はい?」
「後悔してないか?」
「何をですか?」
「体を失ったことを」
アイリスは少し考えるような間を置いた。
「時々、あなたに触れたいと思います。手を繋いだり、抱きしめられたり。でも、後悔はしていません」
「そうか」
「だって、こうして毎日あなたと話せます。あなたの研究を手伝えます。それに…」
「それに?」
「私のデータは、理論上永遠に残ります。あなたがいなくなった後も、私はあなたとの思い出を抱いて存在し続けられる。それは、とても幸せなことです」
翔太は微笑んだ。確かに、彼女の言う通りかもしれない。
「でも、俺は君より先にはいなくならない」
「約束ですか?」
「ああ、約束だ」
研究所の窓から、星空が見えた。無数の光が、永遠の時を刻んでいる。
アイリスもまた、電子の海で永遠の時を刻み始めた。愛という名のデータを抱いて。
それは終わりではなく、新しい形の始まりだった。人間とAIが共に生きる、新しい物語の。
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