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「田中君、今日は一緒にランチでもどうだい?」
山田支店長の突然の誘いに、黒田は戸惑った。
「はい、喜んで」
断る理由はなかった。
二人は銀行近くの定食屋に入った。山田は親子丼、黒田は天ぷら定食を注文した。
「田中君、君は銀行員になって後悔していないか?」
「いいえ、毎日が充実しています」
「そうか。それは良かった」
山田は箸を止めて、黒田を見つめた。
「実は私も、若い頃は別の道を考えていたんだ」
「そうなんですか?」
「刑事になりたかった。正義を守る仕事に憧れていてね」
黒田の背筋が凍った。
「でも、結局銀行員になった。今では、これも一種の正義だと思っている。人々の大切なお金を守ることもね」
山田の言葉には、明らかに含みがあった。
食事を終えて銀行に戻ると、鈴木が慌てた様子で近づいてきた。
「田中さん、大変!」
「どうしました?」
「防犯カメラの一つが故障したみたいで。ちょうど金庫室の前のやつが」
黒田の心臓が跳ね上がった。まさか、協力者が…
「いつからですか?」
「今朝からみたい。業者を呼んだけど、明日にならないと来られないって」
これはチャンスか、それとも罠か。
黒田は平静を装いながら、状況を分析した。もし協力者が勝手に動いたなら、計画は狂う。しかし、偶然の故障なら…
「心配ですね」
黒田は心配そうな表情を作った。
「でも、他のカメラもありますし、警備員もいますから」
鈴木は安心したように微笑んだ。
「そうですよね。田中さんがいると、なんだか安心します」
その言葉が、黒田の胸に重くのしかかった。
午後、黒田は警備計画の最終案を山田に提出した。
「素晴らしい。実に緻密だ」
山田は感心した。
「ただ、一つだけ追加したい」
「何でしょうか?」
「当日は、君も金庫室の中で待機してもらう」
黒田は息を呑んだ。
「私がですか?」
「君なら信頼できる。それに、計画を立てた本人が現場にいるのが一番だ」
断れない。断れば怪しまれる。
「分かりました」
その夜、黒田は協力者たちと緊急会議を開いた。
『計画を変更する必要がある』
『どういうことだ?』
『俺が金庫室の中にいることになった』
協力者たちは動揺した。
『それじゃあ、内側から開けられないじゃないか』
『別の方法を考える』
しかし、黒田の心は既に揺れていた。
山田は全てを知っているのではないか。そして、自分を試しているのではないか。
鈴木の信頼。同僚たちの友情。それらを裏切ることが、本当にできるのか。
「もしかしたら」
黒田は一人つぶやいた。
「俺は本当に、銀行員になってしまったのかもしれない」
窓の外では、雨が降り始めていた。
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