前回の話

第3話「口笛しか吹けない歌手」
数日後、願書堂に奇妙な客が現れた。
若い女性だったが、私が挨拶をしても、彼女は口笛で返事をした。
「ああ、マリさん」
老人は彼女を知っているようだった。
「また来てくれたんですね」
女性——マリは頷くと、カウンターに一冊の本を置いた。『最後の願い』の本だった。ただし、かなり使い込まれている。
「返品ですか?」
老人の問いに、マリは首を横に振った。そして、本を開いて見せた。
ページには「世界一の歌手になりたい」と書かれていた。その下に、小さく注釈があった。
『願いは叶えられました。あなたは世界一の口笛奏者です』
マリは悲しそうに話した。
「歌手になりたかったのに、口笛しか吹けなくなってしまった。歌を歌おうと思うと言葉が出ないの。口笛なら音が出るのに」
老人が話す。
「願いの言葉は正確でなければなりません。『歌手』という言葉の解釈は、本によって異なるのです」
マリは涙を流しながら訴えた。
「私の歌を返して! もう一度願いをかなえさせて。」
「もう一度願いたい?」老人は首を振った。「残念ですが、それはできません。一人一回限りです」
マリはがっくりと肩を落とした。
「でも」老人は続けた。「口笛も立派な音楽です。世界一なら、きっと多くの人を感動させられるはずです」
私は思わず口を挟んだ。
「でも、彼女は歌いたかったんでしょう?」
「そうかもしれません。しかし、与えられた才能を活かすのも、一つの生き方です」
マリは本を閉じると、店を出ようとした。その時、扉の鈴が美しい音を立てた。マリは立ち止まり、その音に合わせて口笛を吹いた。
鈴の音と口笛が見事に調和し、店内に不思議な音楽が響いた。
「ほら」老人は微笑んだ。「新しい音楽の形が生まれました」
マリは振り返ると、初めて笑顔を見せた。そして、軽やかな口笛を吹きながら店を出ていった。
「願いは思い通りにならないことも多い」
老人は私に向かって言った。
「でも、それが不幸とは限りません。大切なのは、与えられたもので何をするかです」
私は自分の本を見つめた。まだ真っ白なページが、重く感じられた。
願いとは何だろう。そして、本当に欲しいものとは何だろう。
マリの口笛が、まだかすかに聞こえていた。それは悲しい曲ではなく、希望に満ちた新しい歌のようだった。
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