駅から三つ目の角を曲がった路地裏に、その本屋はひっそりと佇んでいた。看板には「願書堂」とだけ書かれている。
扉を開けると、カビ臭い空気と共に小さな鈴の音が響いた。薄暗い店内には、天井まで届く本棚がぎっしりと並んでいる。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、白髪の老人が顔を出した。分厚い眼鏡の奥で、小さな目がきらりと光る。
「あの、ここは普通の古本屋ですよね?」
私は恐る恐る尋ねた。友人から聞いた噂では、この店で売っている本は、ただの本ではないという。
「普通?」老人は含み笑いを浮かべた。「まあ、本を売っているという点では普通かもしれませんな」
老人は立ち上がると、奥の棚へと歩いていった。
「お客さんは、何かお探しですか?」
「いえ、特には……」
「そうですか。でも、ここに来たということは、何か願いがあるはずです」
老人は一冊の本を取り出した。表紙には何も書かれていない、真っ白な本だった。
「これは『最後の願い』という本です。読んだ人の、人生最後の願いを一つだけ叶えてくれます」
「最後の願い?」
「そう、たった一つだけ。そして二度と願うことはできません。だから『最後』なのです」
私は本を手に取った。ずしりと重い。ページをめくろうとしたが、老人が手で制した。
「お代は三千円です。買ってからお読みください」
「でも、中身も見ずに買うなんて」
「願いを叶えるのに、中身など関係ありません。大切なのは、あなたが本当に願いを持っているかどうかです」
私は財布を取り出した。なぜか、その本が欲しくてたまらなくなっていた。
「ありがとうございます」
老人は代金を受け取ると、にやりと笑った。
「一つ忠告しておきます。願いは慎重に。取り消しはききませんから」
店を出て、私は本を開いた。中は真っ白だった。一文字も書かれていない。
がっかりして本を閉じようとした時、最初のページに文字が浮かび上がった。
『あなたの最後の願いは何ですか?』
私は息を呑んだ。これは本物かもしれない。でも、最後の願いとは何だろう。人生でたった一つしか願えないとしたら、私は何を願うべきなのか。
本を抱えて、私は家路についた。願書堂の鈴の音が、まだ耳に残っていた。
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