前回の話

第4話「間違えた願い」
ある雨の午後、願書堂に一人の中年男性が駆け込んできた。彼はずぶ濡れで、顔は青ざめていた。
「大変なことをしてしまった」
男性は震え声で言った。手には『最後の願い』の本が握られていた。
「どうされました?」
老人は落ち着いた声で尋ねた。
「妻と喧嘩をして、つい『お前なんか消えてしまえ』と願ってしまったんです」
男性の本を見ると、確かにそう書かれていた。そして、その下には『願いは受理されました』の文字が。
「妻は本当に消えてしまった。家に帰ったら、まるで最初からいなかったかのように」
男性は泣き崩れた。
「取り消してください。お願いします」
「申し訳ありませんが」老人は首を振った。「一度願ったことは取り消せません」
「金ならいくらでも払います」
「これは金の問題ではありません」
私は見ていられなくなって、口を挟んだ。
「何か方法はないんですか?」
老人は少し考えてから、奥の棚へ向かった。そして、一冊の黒い本を取り出してきた。
「これは『願いの記録』です。今まで願われたすべての願いが記されています」
老人はページをめくり始めた。無数の願いが、びっしりと書かれていた。
「ありました。あなたの奥さんも、実は願いを持っていたようです」
「妻も?」
「『夫のいない静かな生活を送りたい』」
男性は息を呑んだ。
「つまり、お二人の願いが同時に叶ったのです。あなたにとって奥さんは消え、奥さんにとってあなたは消えた」
「じゃあ、妻は生きているんですか?」
「生きています。ただし、あなたのいない世界で」
男性は本を握りしめた。
「会いたい。一目でいいから会いたい」
「それは無理です。お互いの願いが、それを妨げています」
老人は黒い本を閉じた。
「願いとは恐ろしいものです。特に、感情的になっている時の願いは」
男性は店を出ていった。その後ろ姿は、この世で最も孤独な人のように見えた。
「あんなことがあるんですね」
私は呟いた。
「よくあることです」老人は溜息をついた。「人は自分の願いばかり考えて、相手の願いを忘れがちです」
私は改めて、自分の本を見つめた。願いとは、こんなにも危険なものなのか。
「怖くなりましたか?」
老人が尋ねた。
「少し」
「それでいいのです。願いを恐れる人の方が、きっと良い願いができます」
雨は止んでいた。でも、先ほどの男性が流した涙の跡は、きっとまだ乾いていないだろう。
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