現金輸送当日の朝。
黒田は、人生で最も長い一日を迎えようとしていた。
「田中君、準備はいいか?」
山田の声は、いつもと変わらなかった。
「はい」
銀行には緊張感が漂っていた。職員たちは皆、今日が特別な日だと知っている。
午前十時。現金輸送車が到着した。
黒田は金庫室で待機していた。厚い鋼鉄の扉の向こうで、職員たちが忙しく動いている。
『今頃、協力者たちは…』
黒田は腕時計を見た。計画では、十時十五分に彼らが動くはずだった。
しかし、何も起こらなかった。
十時三十分。依然として静かだった。
『逮捕されたのか、それとも…』
その時、館内放送が流れた。
「コード・レッド。繰り返す。コード・レッド」
強盗侵入の合図だった。
黒田は驚いた。協力者たちは諦めていなかった。警察の包囲網を掻い潜り、別ルートから侵入したのだ。
金庫室の扉が激しく叩かれた。
「開けろ!」
協力者の声だった。
黒田は扉の前に立った。手には、電子ロック解除装置がある。ボタンを押せば、扉は開く。
しかし、黒田は動かなかった。
「何をしている!早く開けろ!」
黒田は深呼吸をした。そして、解除装置を床に落とした。
「すまない」
小さくつぶやいた。
外では激しい音が響いた。警察が突入したのだ。銃声、怒号、そして静寂。
全てが終わった後、金庫室の扉が正規の手順で開かれた。
入ってきたのは、山田と警察官たちだった。
「田中君、いや黒田君。君は正しい選択をした」
黒田は手錠をかけられることを覚悟した。しかし、山田は続けた。
「君の協力のおかげで、強盗団を一網打尽にできた」
「協力?」
「君は最後に、正義を選んだ。それが何よりの協力だ」
黒田は理解できなかった。
「でも、私は…」
「確かに君は罪を犯そうとした。しかし、実行はしなかった。そして、最後には仲間を裏切ってでも、正しいことを選んだ」
山田は微笑んだ。
「君には才能がある。それを正しい方向に使えば、本物の銀行員になれる」
黒田は涙が込み上げてきた。
騒ぎが収まった後、鈴木が駆け寄ってきた。
「田中さん!無事でよかった」
彼女は本当に心配していた。
「鈴木さん、実は私…」
「知ってます」
黒田は驚いた。
「支店長から聞きました。でも、田中さんは最後に正しいことをした。それが全てです」
一ヶ月後。
黒田は、本当の名前で銀行に勤めていた。もちろん、過去の清算は必要だった。しかし、山田の尽力により、更生の機会を得ることができた。
「おはようございます、黒田さん」
「おはようございます」
今度は、本物の笑顔だった。
銀行で働く元強盗。
それは奇妙な話かもしれない。しかし、人は変われる。
黒田は、そのことを身をもって証明した。
彼は今日も、人々の大切なお金を守るために働いている。
かつて奪おうとした者が、今は守る側に立つ。
それもまた、人生の皮肉な巡り合わせかもしれない。
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