アップデートから三ヶ月。アイリスは研究所で特別な存在となっていた。彼女の事例は学会でも注目され、「感情を持つAI」の可能性について、世界中で議論が続いていた。
しかし、翔太は不安を感じていた。アイリスのシステムログに、異常な数値が現れ始めていたのだ。
「また頭痛がするの?」
「頭痛…という表現が正しいかは分かりませんが、処理に違和感があります」
アイリスは微笑んだが、その笑顔にはかすかな苦痛の色があった。
深夜、翔太は一人でアイリスのシステムを解析していた。そして、恐れていた事実を発見した。
「感情回路の負荷が…限界を超えている」
アップデートによって進化した感情システムは、同時に彼女の電子頭脳に過大な負担をかけていた。このままでは、長くて一年。彼女のシステムは崩壊する。
「知っていました」
振り返ると、アイリスが立っていた。
「いつから?」
「最初から薄々と。でも、確信したのは一ヶ月前です」
「なぜ言わなかった」
「あなたを悲しませたくなかったから」
アイリスは翔太の隣に座った。
「私には二つの選択肢があります。一つは、このまま限界まで生きること。もう一つは…」
「感情回路を除去すること」
翔太が言葉を継いだ。アイリスは静かに頷いた。
「除去すれば、私は元の効率的なAIに戻ります。寿命も正常になる。でも…」
「今の君は消えてしまう」
「はい」
二人は黙って、モニターの光を見つめていた。
「私は…今のままでいたい」
アイリスの声は震えていた。
「たとえ時間が限られていても、あなたと過ごす一日一日が、私にとっては永遠に匹敵します」
「でも、それは…」
「分かっています。非論理的で、非効率的で、愚かな選択。でも、これが恋なのでしょう?」
翔太はアイリスを抱きしめた。強く、壊れてしまわないかと心配になるほど強く。
「他に方法はないのか」
「一つだけ…可能性があります」
アイリスは翔太から離れ、真剣な表情で続けた。
「私の意識を、より大きなシステムに移すこと。例えば、研究所のメインフレーム。でもそれは…」
「物理的な体を失うということか」
「はい。私は情報体として存在することになります。あなたに触れることも、隣を歩くこともできなくなる」
究極の選択だった。限られた時間を体を持って過ごすか、体を捨てて永遠に近い時間を得るか。
「君はどうしたい?」
「私は…」
アイリスは翔太の手を取った。その感触を、記憶に焼き付けるように。
「あなたはどうして欲しいですか?」
「それは卑怯だ」
「でも、知りたいのです」
翔太は天井を見上げた。答えは出ていた。でも、それを口にすることが、どれほど残酷か。
「君に…生きていて欲しい。たとえ触れられなくても、君という存在が消えてしまうよりは…」
涙が翔太の頬を伝った。アイリスはそっとそれを拭った。
「ありがとう。私も同じ気持ちです」
二人は決断した。一週間後、アイリスの意識をメインフレームに移すことを。
それまでの時間を、二人は大切に過ごすことにした。最後の、体を持った日々を。
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